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平成の初めまで大渋滞の名所、主因は「開かずの踏切」

平成の初めまで大渋滞の名所、主因は「開かずの踏切」

現在の川西能勢口駅。高架駅をくぐる県道を車が快適に走り抜ける=川西市小花 Copyright(C) 2020 神戸新聞社 All Rights Reserved.

 片側3車線の広い県道。またぐ形で高架化された阪急・能勢電鉄「川西能勢口駅(兵庫県川西市)」の下を、乗用車や路線バスなどがひっきりなしに行き交う。周囲には大型商業施設や商店が集まって交通量は多いが、通行はスムーズそのものだ。ただ平成の初めまで、ここは「地獄谷」の異名も取った大渋滞の名所。主因はかつてあった「開かずの踏切」だった。

 駅が高架になる前、県道「川西篠山線」は、阪急・能勢電鉄の線路と平面交差していた。当時は片側1車線。駅西側の踏切はトラック2台がなんとかすれ違える幅だったという。

 高度経済成長期、川西市ではニュータウン開発が急速に進んだ。市北中部の丘陵地帯に造られた大規模団地には、サラリーマン世帯などが大量に移り住んだ。1960年に4万人余りだった市人口は、80年には約13万人に急増。20年で3倍超に膨れあがった。モータリゼーションの波も押し寄せ、通勤によく使われたのが自家用車だった。

 川西篠山線は市域を南北に貫き、阪神南部へと続く数少ない主要道路。朝のラッシュ時などに車が殺到した。同駅踏切の交通量(12時間)は76年が約8700台、10年後の86年には1万台を突破。加えて電車の往来も頻繁で、踏切は始発から終電まで合計で約7時間も遮断されていた。

 「一度に3台ぐらいしか通れなかった」と振り返るのは、高架化などの周辺再開発に関わった元市職員の横島毅さん(78)。渋滞対策で早く家を出た人らは、止まっている車の中で朝食のおにぎりを食べ、ひげまでそった。路線バスも身動きができず、乗客は駅の一つか二つ手前の停留所で降りて歩いたという。

 市中部のニュータウン「多田グリーンハイツ」に住む男性(73)も“被害者”の一人。会社員時代、宝塚市南部まで車で通勤していたが、踏切の大渋滞を抜けるまで30~40分も掛かった。1列に並ぶ車が「アリの行列みたいだった」と苦笑い。やむなく西側に迂回していたという。

 不評は大阪(伊丹)空港や大阪の梅田、北新地のタクシー運転手にも知れ渡り、川西市までの送迎は極端に敬遠された。山に東西を挟まれた市の地形もあって、大渋滞の県道は「地獄谷」「死の谷」との異名で呼ばれたという。

 課題解消へ、県は80年に駅の高架化を決定。6年後に着工。駅は西へ約170メートル動いて県道をまたぎ、踏切は93年に姿を消して道幅も広がった。

 住宅都市として発展した川西市。しかし「玄関口が開発に追いついていなかった」と横島さん。高架化は渋滞を解消しただけでなく、阪急と能勢電鉄の直通運転も可能にした。さらに、不良住宅が密集していたかつての駅周辺も、再開発できれいな商業エリアに生まれ変わった。「隔世の感があります」。横島さんは感慨深げにつぶやいた。(伊丹昭史)

神戸新聞

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