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柴崎岳の本拠地は最果ての地に。欧州を席巻したデポル、運命の一戦

追憶の欧州スタジアム紀行(5)
リアソール(ラ・コルーニャ)

 デポルティーボ・ラ・コルーニャの本拠地、ラ・コルーニャを訪れ、世界遺産として知られるヘラクレスの塔に昇り、眼下に大西洋を望めば、遠くまで来たことをひしひしと実感する。リアス式海岸の語源としても知られる、海岸線が入り組んだ独特の地形にも目は釘付けになる。

 欧州大陸のまさに端だ。もうこの先には何もない。コロンブスがアメリカ大陸を発見するまで、そこは「フィニステーレ(最果ての地)」と呼ばれていた。

柴崎岳の本拠地は最果ての地に。欧州を席巻したデポル、運命の一戦


海の近くに立つデポルティーボ・ラ・コルーニャの本拠地リアソール

 リアソールがあるのは海岸から200メートルほど離れた場所。オルサン湾という風光明媚な湾岸の遊歩道を右に眺めながら歩いて行くと、スタジアムは目の前に見えてくる。そこは旧市街地のほぼ中心部に当たる。一方、オルサン湾を背にして500メートルほど行けば、ラ・コルーニャの港だ。つまり旧市街地は、湾と港に挟まれる狭いエリアに密集している。海がここまで近距離に迫り、波の音と潮の香りがここまで日常的に五感を刺激する街も珍しい。 

 初めて訪れたのは1994年4月7日で、国内リーグのアトレティコ・マドリード戦だった。その時、リーグ戦で首位に立っていたデポルティーボとは、どんなチームか。ベベット、マウロ・シウバ、ドナトなどブラジル人選手も観戦動機のひとつだった。

 しかしその時、それから約10年と少しの間、日本からこの最果ての地まで、何十回と足を運ぶことになるとは、想像もしなかった。

 まさにハマってしまうことになった。

 デポルティーボは、このアトレティコ戦に2-1で勝利。初優勝に向けて残り数試合という段に漕ぎつけた。そして、シーズンの最終戦を迎えてもなお、首位の座を維持していた。バレンシアとのホーム戦に勝利すればスペインリーグ初優勝が決まる。しかし、2位バルセロナとの差は勝ち点1。

 デポルティーボ対バレンシアは、終盤を迎えても0-0のままだった。一方のバルサも、前半を終えて対戦相手であるアトレティコ・マドリードに1-2とリードを許す展開だった。

 筆者はその時、カンプノウにいた。バルサは後半に入るや、次々加点する。結局、5-2でアトレティコ戦を終えようとしていた。その時、リアソールで事件が起きた。デポルティーボがPKを獲得。ユーゴスラビア代表のミロスラフ・デュキッチがこれを決めれば、優勝はデポルティーボの頭上に輝くはずだった。

 カンプノウの観衆は、ラジオに耳を傾けていた。バルセロナのフリスト・ストイチコフは、試合中であるにもかかわらずタッチラインを越え、スタンドの観客のラジオに耳をそばだてた。デュキッチのPKは失敗した。デポルティーボはバルサに逆転優勝を許した。その初優勝の夢ははかなくも夢と消えた。リアソールでその試合を撮影していた知人のカメラマンによれば、その夜、ラ・コルーニャの街は、お通夜のような静けさに包まれたという。

 人口25万人の港町。とにかく風光明媚で魚介類がおいしい。のどかで素朴。ベベット、マウロ・シウバ以外にも、リバウド、サンパイオ、ジャウミーニャ、フラビオ・コンセイソンなど、ブラジル代表選手が次々とやってきたが、現地を訪れると、その理由がわかる。肩の力を抜いて過ごせる街。人間本来の生活を営むことができそうな理想郷。1、2日では帰りたくない異次元空間なのだ。

 1998-99シーズンにハビエル・イルレタが監督に就任すると、デポルティーボは成績をさらに上昇させた。就任2シーズン目(1999-2000)には、国内リーグ優勝を果たす。チャンピオンズリーグ(CL)にも翌2000-01から5シーズン連続出場することになる。ベスト4が1回、ベスト8が2回、ベスト16が1回と、決勝トーナメントの常連として欧州全土にその名を売った。

 最果ての地の港町にある非ビッグクラブが、いいサッカーを最大の拠り所に、スペインはもとより欧州のビッグクラブに立ち向かう姿に、判官贔屓は触発された。

 イルレタ監督はバスク人で、ビルバオのゲチョという街に家族は住んでいた。ラ・コルーニャには単身で赴任していた。リアソールまで1.5キロほど離れた、オルサン湾とスタジアムを眼下に望む「メリア・マリア・ピタ」というホテルの7階の一室を住居に充てていた。

 筆者はイルレタ監督に何度となくインタビューした。ほぼラ・コルーニャを訪れるたびに。監督インタビューは、それ以前も以降も、日本人外国人にかかわらず、数多くこなしていた筆者だが、イルレタ監督に勝る人はいなかった。回数のみならず、内容的にも、だ。

 スペインでは監督のことを「ミスター(ミステル)」と称すが、そこでイルレタにつけられた異名は「ミスター4-2-3-1」だった。4-2-3-1を好んで使用した監督だ。

 4-2-3-1という4文字表記を初めて口にしたのはフース・ヒディンクだろう。1998年フランスW杯で、この布陣を用いてオランダ代表をベスト4に導いたことで、世界的に流行していくことになるが、そのW杯明けのシーズン、デポルティーボの監督に就任したイルレタも、4-2-3-1及び攻撃的サッカーの興隆を語る際に外せない名前になる。

「攻撃の基本はまず外から」「サイドも中盤に含まれる」等は、イルレタがよく口にした台詞だが、リアソールのピッチに描かれた4-2-3-1には、時代の最先端を行く目新しさがあった。日本人にはとりわけ眩しく映った。

 デポルティーボが下り坂に転じたのは、2003-04シーズン、CLでベスト4入りした後だった。この時、準決勝で敗れた相手はジョゼ・モウリーニョ率いるポルトだった。デポルティーボは0-0で折り返したその第2戦で、マウロ・シウバとジョルジュ・アンドラーデという2人の中心選手を欠いていた。結果は0-1。アンドラーデの代役で出場したセサールが、ポルトの10番デコを倒し、PKを取られたことが致命傷となった。

 タラレバ話をすれば、2人がいればこのシーズン、デポルティーボはCLで優勝していたと思う。

 イルレタ監督も、「シーズンオフに2、3人補強することができれば、翌シーズンもCL優勝を狙えるチームを編成できた」と、後に語っている。だが、クラブはそれをしなかった。拡大路線に終止符を打つ決断をした。

 人口25万の港町のクラブがCLで優勝を狙うことに、財政的な無理が生じたからだ。市民に尋ねれば、そのクラブの決断を受け入れる人は、受け入れたくない人より多数を占めた。1993-94シーズンの国内リーグ、最終戦でバルサに逆転負けした時の監督、アルセニオ・イグレシアス監督もそのひとりだった。悔しそうな表情45%、仕方がないという表情55%を交錯させながら、当時の話を述懐してくれた。

「デポルの奇跡」と呼ばれた栄光の日々からおよそ15年が経過した。デポルティーボは現在、スペインリーグの2部におり、柴崎岳が所属している。リアソールのスタンドは、チームカラーである青と白で塗り分けられているが、「リアソール・ブルー」と呼ばれているその青は、はやりどこか寂しげに見える。

 2004年5月4日。CL準決勝ポルト戦のピッチにマウロ・シウバとアンドラーデがいたら、話は違う方向に進んでいたのかもしれない。 

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